蟲を感じたらお知らせ下さい。

映画『蟲師


見てきました。
見ちゃいました。
あきら氏に止められたけど、見てしまいました。


以下、映画を見た私の感想です。
ネタバレを含みます。
(&映画絶賛派の方はスルーの方向でお願いします)
読んだ後の苦情はノーセンキューです。




映像、綺麗でした。
蟲の感じが、3Dで良い感じに表現されており、さすが大友監督。といったところ。
音楽も良い感じで、作品の雰囲気を壊すことなく、邪魔にも感じることなく。って感じでした(私には)。


ストーリーの流れは、
「柔らかい角」(1巻)→「雨がくる虹がたつ」、「筆の海」(2巻)→「眇の魚」(3巻)
って感じでした。


細かく言うと、
「眇の魚」が各所に散らばめる感じで挿入されており、「柔らかい角」の後に「雨がくる虹がたつ」の虹郎と出会って、虹蛇について調べる為に淡幽の元へ向かい、「筆の海」っぽい話を終え、虹蛇に辿りつき、虹郎と別れ、「眇の魚」に戻ってくる。
みたいな感じでした。


んで。
見た感想としては、
アニメを(あのクオリティのまま)映画にして欲しかった。に要約できそうでした。


映画化するにあたって、多少の設定変更や、原作とは違う演出は仕方が無いし、
それこそが、原作を離れてメディア化される醍醐味であるとも考えているので、
「筆の海」の話で、淡幽によって封じられている蟲が禁種のそれではなく「常闇」に変わっていたり、
真火が女の子に変わっていたり、虹郎と一緒に淡幽を訪ねたりとかは全然構わなかったんですが。


それぞれのエピソードが削られすぎ!
「柔らかい角」は『蟲師』の世界への導入的意味合いもあっただろうから、まぁそこそこ描かれてはいたけれど。


「雨がくる虹がたつ」での、虹郎と父の話が少ない!もっとしっかり描いて欲しかった。
あれでは虹郎が、虹蛇を追い続けている動機とか、名前へのコンプレックスとか全っ然伝わってこない!!


「眇の魚」は、エピソード自体を所々で切り離して、全体に散りばめる感じで組み込まれていたけれど、
その出来具合にかなり不満。
冒頭で、ヨキと母が山崩れに遭って、ぬいと出会うまでは構わなかったけれど、
その後の展開を、途切れ途切れで盛り込む必要性が見受けられない。
「筆の海」パートでギンコが気絶する場面があったけど、なんならそこに「眇の魚」エピソードで良かったんじゃないだろうか?
っていうかそれ以前に、映画における「ぬい」の扱われ方が納得いかない。
どうして「生きながらえていた」必要があったのか?


いや、百歩…千歩くらい譲って「ぬい」が「生きながらえていた」のを良しとして。
あの心変わりっぷりはおかしい。
納得いかない。
もっと、「眇の魚」エピソードが、ヨキとぬいの生活やら会話やらがしっかりと描かれていたのなら納得できたかもしれないが、映画では少しずつ挿入される形であった為に、二人の関係(心の通わせ具合)が大変希薄で、「ぬい」に感情移入出来なかった。
ぬいの配役(江角マキコ)はビジュアル面で悪くなかったのに、演技がいまいちに思えた。
ぬいの感情の起伏具合が激しすぎる。
元々は感情豊かな人物だったかもしれないが、
私が原作から感じた「ぬい」は、
ヨキと出会った時、夫と子を救い出す為の生活に、常闇との生活に「疲れた」人だった。
夫と子のことも、諦めていた。
しかしヨキと出会い、一時の、偽りとはいえ再び「温かな生活」に触れたことで、その「疲れ」を癒し、また同時にヨキを道連れに出来ないと強く思い、ヨキに真実を告げ、夫と子と共に逝く決意をした。
感情少なく見える表情の内側に、絶えぬ家族への愛情と、ヨキへの優しさを持った、強い女性だった。


映画で、ヨキとの生活場面が少なかった為に、ぬいの心の変化が解りにくかった。
それ故に、「生きながらえたぬい」が「ヨキ」を求め続ける様がとても醜かった。


逆に言えば、二人のエピソードがしっかり描かれていたのなら、
映画版として作られた「生きながらえたぬい」と「常闇と化したぬい」の二つの設定は、面白く生きたのではないだろうか。
(個人的には「生きながらえたぬい」の方は要らない)


あと、個人的に一番要らなかったのが、
ギンコ「だから俺は、淡幽に好きと言えんのだ」(確かこんな感じの台詞)


「ギンコ→淡幽」は台詞などを用いて明確に表す必要なんて無いんだ!!
二人の雰囲気で、それだけでいいんだぁっ!!



なんか、書いててよく解らなくなってきたけど、
要約すると
アニメを(あのクオリティのまま)映画化して欲しかった。…あ、2回言った。